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親として、師匠として、ライバルとして…
京の手仕事さんが見た父の背中

6月16日(日)は父の日ですね。そこで今回は、京都で伝統産業に携わる職人あるいは作家の父子にスポットを当てました。注目の若手として活躍する“京の手仕事さん”たちは、それぞれ父親の背中から何を学んできたのでしょうか―。

鏡師 懸命な後ろ姿に導かれ不器用な自分もこの世界に

鏡面を削る晃久さんを見守る富士夫さん。「昔は家内分業制だったので、一つの作業を10年かけて学んでいました。しかし職人が減った今は、同じ10年で全作業を覚えねばならない。息子は大変な時代に生まれてきましたが、その分よく頑張っています」

普段、私たちが目にする鏡は、明治時代に西洋から伝わってきたガラス製のもの。それまで日本では、銅やスズ、 亜鉛などの合金でできた鏡が使われていました。

「こうした日本古来の鏡は、現在は主に神社に納めるものとして作られています」と鏡師の山本晃久さん。

実は、山本家は京都で唯一の鏡師。晃久さんの父・富士夫さんが4代目となり、鋳造・削り・研ぎの工程からなる鏡づくりを行っています。

そうした家に生まれた晃久さんですが、「昔は家の仕事に興味がなかった」とか。「不器用な自分には向かないと思っていたんです」。しかし、大学時代、富士夫さんから「アルバイトで家の手伝いをしてほしい」と頼まれたのを機に、その面白さに気付いたそうで…。

「繰り返しの多い作業が、体を動かすのが好きな自分に合っていたし、手先の器用さ以上に根気強さが鏡を美しくするところにも引かれました」 そして、南区の山本家の工場で鋳造を学んだのち、晃久さんは3代目の祖父・凰龍(おうりゅう)さん(故人)から研ぎや削りを習います。

「親子だと距離が近すぎる気がして、父にはあまり教わらなかったんです。でも、父に感謝していることがあります。それは、職人としていつも忙しそうに仕事する姿を見せてくれていたこと。だから僕もこの世界に入った。今や京都に一軒しか残っていない鏡師ですが、活躍の場を増やし、僕も次の世代にそういう姿を見せたいです」

鏡の裏側には、このような装飾がほどこされています

鏡面に姿が映るほどに合金を磨き上げるには、まずはやすりをかけ、その後も数種類の刃物で磨き込み、作業に半日近くかかるとか

蒔絵師 「失敗から学べ」と見守ってくれていました

細い蒔絵筆で絵付けをする里果さん。「最初は、墨で細く長い線を引く練習から始めていきました」。手先の器用さと根気が求められる作業です

「兄は会社員、弟は料理人。代々続いていた家業を継いだのは、兄弟の中で私なんです」

こう話す田中里果さんが、漆器に絵付けを施す蒔絵(まきえ)師を目指し、父・英雄さんに師事したのは19歳のとき。小学校高学年のときの、社会科の課題で伝統工芸について調べた際「『父は特別な仕事をしているんだ。助けになりたい』と思った」と言います。

そんな里果さん、「技術の習得は簡単ではありませんでしたが、修業で嫌になったことは一度もない」そう。その理由は、「私が失敗をしても『そこから学べることがある』と怒らず、何にでも挑戦させてくれていた」という英雄さんの教え方にもあったようです。

しかし、里果さんが弟子入りして3年後に、英雄さんは病気で他界。そ の後、京都市伝統産業技術者研修などで学んだ里果さんは2009年に独立。かつては英雄さんと作業をしていた左京区の工房で作品づくりに励んでいます。

「今でも父の夢を見るんです。師匠と弟子として過ごせた時間が短かった分、夢の中で私は質問ばかりしてしまうのですが、父はいつも笑っているだけ。答えが聞けないのは残念ですが、『このまま進んでいっていいよ』と言われているような気もしています。これからも見守っていてほしいですね」

里果さんの作品の一部。かんざし、ブローチ、帯留め、ペンダントなど、どれも若い女性ならではの感性がすてき! 「自分がほしいものを作ってみることもあるんですよ」

里果さんが20歳を迎える年のお正月に撮った、父・英雄さんとの写真

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