その道を、進むとどこにつながっている? 京都辻子(づし)ワールド”

その道を、進むとどこにつながっている? 京都辻子(づし)ワールド

平安時代から続く辻子の歴史

教えてくれたのは…
髙橋康夫さん

花園大学文学部教授、専門は日本都市史。
「辻子は、特別な趣があるわけではないのですが、生活に必要な便利な道として地元の人に活用されています」

“暮らしやすさ”から誕生

地域の人の愛着が強く感じられる辻子の誕生について、花園大学文学部教授・髙橋康夫さんは「平安時代末の書物に『四條南室町東辻子』と書かれているので、そのころには人々に言葉として定着していたと言えます」と話します。

「条坊制のもとに作られた平安京は、東西南北の大路小路が碁盤の目状になっていて、町の区画が決まっています。平安後期ごろになると、公家も庶民も、自分たちが暮らしやすいように道を作り変えていくようになったんです。町の区画の中にまっすぐの道を通して小路をつないだり、建物を迂回(うかい)するような形の道を作ったり。平安時代以降も辻子が作られていくのですが、道はすべて公のもので誰が通ってもよい空間という認識でした」

唐の長安をモデルに作られたという奈良、平安京にならった鎌倉、そして条坊制のお手本になった中国など、道で町の区画を整備した歴史を持つ都市には、辻子のような成り立ちの道がみられるのだそうです。



室町幕府の栄枯盛衰も影響

おもしろいのは、市内の辻子の半数以上が上京区に集中していること。 これは、平安時代、京都の北端の道は一条通で、それより北は未開発な地域だったことに関係します。室町時代以降、都市が発展するにつれて南北の大路小路が延長されるのにともなって、家が立ち並ぶようになり、この地域に辻子が作られるようになったといわれています。

「室町幕府の3代将軍足利義満が造営した邸宅“室町殿”の存在が大きかったと思います。烏丸通・今出川通・上立売通・室町通に囲まれた東西一町南北二町の大豪邸で、周辺には、幕府の幹部の屋敷がありました。ところが、政権が代わって、安土桃山時代になると、町の人たちは使いやすいように室町殿とその周辺の区画を割ったため、多くの辻子が生まれたと考えられます」

辻子という言葉を手がかりに、平安京から続く歴史の奥深さがわかってきますね。

「辻子という名称は、現在、ほとんど使われなくなっているので、もはや死語なのかもしれません。しかし、言葉がなくなるということは、京都の歴史がなくなってしまうということ。地域にとって、日常生活に密着した辻子が今も残っているのですから、その歴史を伝えていってほしいですね」

ちなみに、辻子を図子と表記することがありますが、髙橋さんによると正解は辻子なのだそう。

「“づ子”とも書きますが、これは日本で作られた字で、道や歩くことを表す部首と、道が交差する意味のつくりが合体してできています。読み方は“づし”。図子は後世の当て字でしょう」



ところで、「辻子」と「突抜」の関係は?

辻子と同じように、条坊制の大路小路ではない道に「突抜(つきぬけ)」があります。建物や森などを突き抜けて作られたのが一般的な突抜。松原通東中筋を下る「天使突抜」は、五條天神社(天使の宮)の鎮守の森を突き抜けて作られたため、この名が付けられました。名称に地域性や歴史が見られるのも、辻子と共通しています。町名も合わせると30カ所ほどの名称が残っています。 「突抜の場合は、豊臣秀吉の市中町割改造事業という京都改造計画で行われた街区の再編成も、大きく影響しています。大路小路で形成されていた街区内を貫通させて計画的に道を作っている点が、辻子とは違う部分です」

辻子を守るには、歴史と安全の両立を

京都大学大学院工学研究科の研究員・森重幸子さん

「膏薬辻子は、通り抜けられるのかどうか一見してわからず、プライベート感をかもしているのが魅力です」

京都の町には、辻子をはじめとした細い道が多く見られますね。平成23年度に行われた京都市の調査によると、市内の都市計画区域における幅4メートル未満の道(細街路)は約1万2960本!

京都大学大学院工学研究科の研究員・森重幸子さんは、辻子を含む路地と町家が並ぶ町並みについて調べています。

「京都らしい情緒ある景観として、路地と町家は切っても切れない関係にあります。細街路に面した古い建物を建て替えるとなると、建築基準法上、敷地を後退して道幅を広げなければいけません。そうすると、壁面をそろえて軒を連ねる町家らしい並びがなくなってしまうことになります」

場合によっては建築許可が下りないことも。災害時に避難・救助活動に支障をきたさないようにするためですが、「町全体の安全性を確保することは大事。同時に、町を構成する道などの歴史や愛着も大事。両方の価値観を融通しながら、町の姿を考えていくことが大切です」。

森重さんがかかわる町並み保存の取り組みに、膏薬辻子(こうやくのづし)の町づくりがあります。「膏薬辻子の地域の人たちは、辻子は貴重な空間という思いを持っておられます。ずっと住んでいる人にとっても、新しく引っ越してきた人にとっても、奥深い歴史を持つ辻子などの路地は価値観を共有できる存在なのです」 では、膏薬辻子の取り組みを紹介しましょう。

保水性のあるアスファルトに、石畳風の模様が刻まれています。膏薬辻子の綾小路通側の東角は、国の重要文化財に指定されている杉本家住宅

膏薬辻子で 町づくりが進行中 灯ろう、式目など知恵と工夫を凝らしています

四条通から綾小路通へ抜ける、新町通と西洞院通の間にある細い道が膏薬辻子。平将門の亡霊を供養した空也上人の道場がこの地にあり、のちに「くうやくようのどうじょう」から「こうやく」となったといわれています。

辻子に面して30軒ほどの家が立ち並ぶこの地域では、7年前から辻子を軸にした町づくりに取り組んでいます。

「この辺りは、四条通に面した商業地。近所の町家が取り壊されるのを見た時、いずれは辻子に面した町家がこうなってしまうかもしれないと、危機感を強めたんです」と話すのは北西英彦さん(写真)。町名を掲げた「新釜座町のこれからを考える会」の発起人です。これまでに、祇園祭の宵山の期間に辻子に灯ろうを設置して雰囲気を盛り上げたり、暮らし方のルールを「膏薬辻子式目」に定めたりしました。

町づくりへの取り組みが京都市に認められ、今年、石畳風の舗装工事が行われました。また、エアコンの室外機に格子のカバーを設置。

「格子の連なる京都らしい町家の風情を守っていけたらと思っています。これからは空き家も増えてくるとは思いますが、町の活力を大切にしたいですね」

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