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初耳!祇園祭学

1000年以上にわたり、受け継がれてきた祇園祭。その歴史や伝統、芸術性などを祇園祭に詳しい人たちに聞いてみると、「えっ、そうだったの!」という〝初耳〟情報がたくさん集まりました。知っていると、来月から始まる祇園祭がより楽しめそう。
※紙面の〝初耳度〟は、読者アンケート(62人に実施)でその情報を「知らなかった」人の割合

歴史

初耳度85%/稚児の「注連縄切り」が始まったのは、昭和に入ってから

山鉾巡行のスタートを飾る、長刀鉾の注連縄切り(写真提供/長刀鉾保存会)

「祇園祭山鉾連合会」副理事長、
「長刀鉾保存会」評議員・
木村幾次郎さん
昭和31年から、長刀鉾の囃子(はやし)方を務めます

長刀鉾の稚児による「注連縄(しめなわ)切り」といえば、山鉾巡行のハイライトのひとつ。意外や歴史はまだ浅く、「祇園祭山鉾連合会」の副理事長で、「長刀鉾保存会」評議員の木村幾次郎さんに聞くと、始まったのは昭和31年とのこと。

「江戸時代は、かみしもを着けた都や幕府の役人が、腰の位置くらいに張られた注連縄を切っていたという記録があります。それがいつの間にか途絶えてしまったんです」

そして昭和31年。それまでは四条寺町を南下して松原通を西へ進んでいた前祭の巡行ルートが、四条寺町を北上し、寺町御池を西に進むコースに変更。御池通に観覧席が設けられ、 観光の色合いが強まった年でもありました。このときに、現在とほぼ同じ形で「注連縄切り」が行われるように。

「長刀鉾の人々が訪れたみなさんに喜んでもらえるよう考案したもの。巡行を盛り上げる“演出”として始まったんです」。そのころ、注連縄は寺町通を上がった位置に東西に張られており、数年後に四条麩屋町に移動、南北に張られるようになったそうです。

昭和36年になると、四条河原町を北上するルートに変わり、現在の巡行スタイルが定着。町衆(ちょうしゅう)から生まれた演出は、新たな伝統として受け継がれています。

初耳度76%/祭の発祥から約400年間、巡行していたのはみこしだけ

「平安時代初期の9世紀ごろ、全国で疫病が流行したため、二条の神泉苑に武器の “鉾(ほこ)”を当時の日本の国の数に合わせて66本立て、祇園社、つまり現在の八坂神社からみこしを出して怨霊退散を祈願したのが祇園祭の起源。古くは『祇園御霊会(ごりょうえ)』といい、災いをもたらす怨霊の魂を鎮め、なぐさめる祭礼を意味します」とは、佛教大学歴史学部の教授・八木透さん。現在では山と鉾も巡行をしますが、「発祥時は、『神輿渡御(みこしとぎょ)』のみが行われていました」。
神輿渡御は、3基のみこしが17日の神幸祭に御旅所に向かい、24日の還幸祭に八坂神社に戻るというもの。 「この形式は、平安時代から今までほとんど変わらずに続けられています」

佛教大学歴史学部の教授・
八木透さん
学生のフィールドワークとして「祇園祭研修」の授業も担当

現在のイメージに近い“鉾”が文献史料に現れるのは14世紀後半の南北朝時代から。
「山鉾は町衆が中心となり、神様の通り道を清めるみこしの先導役として作り上げたもの。当時の山鉾巡行は、神輿渡御に付随した祭礼という位置づけだったんです」

初耳度66%/室町時代の山鉾の数は、58基

江戸初期の巡行の様子が描かれた「十二月あそひ」6月の図(佛教大学附属図書館所蔵資料)

「山鉾の初期である南北朝時代は、武器としての鉾を飾り、その周囲でおはやしや踊りを演じるのが『鉾』、趣向を凝らした作り物に常緑樹を飾り付けるのが『山』とされていました。室町時代には、より大きく華やかになり、ますます存在感を高めていきます」(八木さん)

発展の背景にあったのが、下京を中心とした町衆の経済力だったとか。 「商人は自らの商いをアピールする意図もあり、競うようにぜいを凝らした鉾や山を作っていきます。そして、応仁の乱以前には、実に58基の鉾や山の名前が記録に残っています」

その後、「応仁の乱」や江戸時代の3度の大火などにより、一時は激減したことも。
「時代の波を町衆の心意気によって乗り越え、存続・復興してきたのが現在の33基の山鉾なんですよ」

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