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京の階段コレクション

古来の斜面が人口密度アップにつながっているのかも

桓武天皇皇后陵周辺(向日市)

この先にある御陵は、最近の調査では古墳時代中期の墳丘ではないかとも指摘されているみたい

階段の途中を右手に曲がった先、「西野公園」では東側が開け、眺めのよさを体感できます

西国街道から西山方面へつながる大原野道。物集女街道を過ぎると、北へ上がる階段があります。

「この先にある桓武天皇皇后陵は、長岡京を造営した桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)の御陵とされていました。階級制があったころは位が高い人ほど、家や墓を高台に造る傾向に。樫原断層によって古くから崖が形成されていたこの場所も、そうした目的に使われました」(梅林さん)

近年、御陵の周りに住宅が建設されたため、大原野道まで下りるこの階段がつけられました。

「京都府内で最も人口密度が高い市町村が向日市。京都や大阪に通う人に人気で、戦後、御陵がある山の斜面に住宅が立ち並ぶようになりました。階段は、人々が斜面に暮らす工夫なんです」

〝幻の城〟の痕跡が残っています

伏見指月城(伏見区)

この先にある御陵は、最近の調査では古墳時代中期の墳丘ではないかとも指摘されているみたい

2カ所のうち西にある階段。上がれば、かつての城の敷地内に足を踏み入れることに

晩年、伏見に城を築いた秀吉。今でも昭和期に建築された城を目にすることができますが、当初は違う場所に築城されていました。今のJR「桃山」駅の南側にあたります。

「伏見指月(しげつ)城と呼ばれている城です。完成からまもなく慶長伏見地震が起き、天守閣などが崩壊。この場所には町がつくられました」

同駅の南側、東西に延びる立売通を越えた辺りに、指月城の遺構を確認するカギだという2カ所の階段があります。

「階段の下から立売通を含む、幅20mほどの土地が周囲より低くなっています。考えられるのが、このくぼ地が城の北堀だったということ。堀の跡にできた住宅と、城跡に立つ住宅を行き来する階段が造られました。実態がはっきりせず〝幻の城”ともいわれてきた指月城ですが、地形からその面影を見ることができます」

大文字を望む、趣ある空間

吉田山周辺(左京区)

※階段は星印の辺りに4カ所以上あり

吉田山の東斜面には、町家風の住宅の周りに石畳の階段があります。

「ここは銀行員や大学教員など、当時のエリート層に向けて、美観を重視しつくり出された住空間です」。開発したのは大正から昭和期に活躍した実業家・谷川茂次郎。山頂には、自身が茶の湯を楽しむために造営した庭園もあります。

「山の中腹は賃貸住宅地にしました。この場所が選ばれた理由は、東山の大文字。どの住まいからも大文字が見えるよう、傾斜を生かして家が配置されました。この住宅地と山の麓を結んだのが階段です」

階段を下りるときは、ちょうど大文字が正面に。住宅地全体が、景観を意識した構造になっているんですね。

段差の少ない、歩きやすい設計も特徴

段差の少ない、歩きやすい設計も特徴

大文字の眺めは茂次郎のこだわりだったんだね

斜面に沿った4カ所の階段からも、大文字が見られます

貴族も好んだ場所が住宅地に

宇治陵周辺(宇治市)

藤原氏といえば平安時代の有力貴族ですね。その一族が眠る墓がJR「木幡」駅の東側に集中しています。

「1005年に道長が建立した浄妙寺を中心に位置し、まとめて『宇治陵』と呼ばれています。京都から別荘がある宇治に向かう途中で眺望のよいこの付近を、墓地に選んだんです」

同駅そばを流れる川の一筋北の道を歩くと、北と南に上がる、2カ所の階段を発見。どちらも上ると宇治陵周辺にたどり着きます。

「北に上がる階段(写真【2】)の先には、藤原道長の墓と推定されている宇治陵32号があります。現在、宇治陵の周りは住宅地なので、低地と家をつなぐ階段ができたのでしょう」。高台からは、見晴らしのいい景色が望めましたよ。

上がると宇治陵23号、28号、29号に着くよ

「北と南、2カ所に上がる階段は、下の道が谷であったことを示しています」と梅林さん

北向きの階段。上には平安時代末期の関白・藤原基房の別荘跡地に建てられた松殿山荘も立っています

北向きの階段。上には平安時代末期の関白・藤原基房の別荘跡地に建てられた松殿山荘も立っています

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